『自己肯定感の変化』自分にとって辛い仕事を選んでいた理由

昨日、玄関と冷蔵庫のお掃除、服や靴の断捨離をしました。

たくさん作業して、綺麗になった部屋を見て、

『玄関が整っているなあ』

『この椅子の色、本当に良いなあ』

などと満足していました。

モノを少なくすると、モノの美しさが際立ちますね。

断捨離と直接関係は無さそうですが、

家具を愛でていたら、ふと脳内に言葉が走りました。

『あれ?私、自分からしんどい仕事を選んでいたのかな?』と。

ここから仕事について考え始めました。

私は今、休職中ですが、

私の能力からみて、肉体的にも精神的にもしんどい仕事をしてきました。

実際、寿命が縮んだと思います。

あえてそこに居続けた理由は、

生活していく為と、

仕事をするのが当たり前だと思っていたこと、でした。

ただ、

本当はそれだけじゃなく、自己肯定感が関係していると気づきました。

よく日本人は、自己肯定感が低い人が多いと言われますが、

低いと言っても、人によって程度は様々ですよね。

私は自分の存在は否定しないけれど、自分の考えることには価値が無いというレベルでした。

無価値だから自分の意見は持たないように、

指示された通りの仕事をする、という考えで、毎日過ごしてきました。

仕事がどんなに辛くても、

辛ければ辛いほど安心している部分もありました。

ダメな自分を社会に受け入れてもらい、

周囲の人たちとのバランスを取るためには、

私が苦しい思いをすること。

つまり、

罰を受けながら働く条件でなければ世の中に受け入れてもらえない、落ち着けない。

無意識でそう思い込んでいたんですね。

私の周囲には、

『余り仕事したくない』と上司の前で言ったり、

『指示されたくない』『この仕事はやりたくない』など要求する人もいて、

その自由で率直な言動に、びっくりしたり羨ましく思ったりしたことがありました。

私は逆に、

『意見を聞かせて』『どんな仕事をしたい?』と促されることがありますが、

それに答えることは、心の深い場所で禁止されていることでした。

10月にも自己肯定感について書いています↓

この時は、凡人なのか凡人未満なのか、言葉使いに敏感に反応していました。

今はもうそんなランク付けみたいな感覚は無くなっているのが不思議です。

『自己肯定感』も主観的で絶対的な個人の感覚だと思っていましたが、

本来は自然とそこにあり、高い低いなどの解釈は入れず、

また、その言葉自体あえて意識するようなものではない、と思えてきました。

植物のようにお水をあげてお世話していれば育っていくだろう、という感覚です。

そんなふうに気楽に捉えることができるようになりました。

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